高崎だるまは、今から二百数十年前の寛政年間(1789年〜1801年)に碓氷郡豊岡村の豪農・山縣友五郎によって生み出され今日まで作り継がれてまいりました。初めは、少林山達磨寺の東皐心越禅師の描かれた一筆達磨像のお姿を型取った座禅だるまでした。その製法は山縣家の秘伝とされ受け継がれましたが、明治に入り木型名人の葦名鉄十郎盛幸が豊岡村に住み始め、だるまの木型を専門に彫り始めます。これにより豊岡地内にだるま作りを目指す者が増え、大勢の人が作り始めるようになりました。これが高崎だるまのおいたちです。
また、そのだるまは、少林山達磨寺が創建当初から続けている七草大祭で売られるようになりました。これが「だるま市」の始まりです。
初めは、達磨大師のお姿を描いた座禅の形でしたが、養蚕の発達とともに、繭の形に似た縦長の繭型だるまに形が変わってきます。上州は、昔から養蚕の盛んな地域で、蚕は繭を作るまでに4回脱皮しますが、蚕が古い殻を割って出てくることを「起きる」と言います。この言葉にかけて、養蚕農家では七転び八起きのだるまを大切な守り神として奉り続けてきたのです。養蚕の大当たりの願かけから、やがて一般家庭へと広まり、様々な願かけが行われるようになりました。
別名「縁起だるま」「福だるま」「祈願だるま」とも呼ばれる高崎だるまは、こうした時を経て郷土のみならず日本を代表する「かけがいのない」存在となりました。